清乾隆帝即位時代に、三峡で集落形成。商業活動が盛んであった。
明朝末期、清朝の初期に中国から台湾へ渡ってきた移住者が淡水河に沿って、上流の大漢渓のほとりにある三峡地区まで開墾して、ここに村が形成された。人々は一般用水と灌漑用水を利用するため、水際の近くに住んでいた。このため、三峡地区で最も早く開拓されたのは横渓、三峡渓と大漢渓付近である。そのあと、土地が手狭になり、どんどん山地へ開拓を進めていった。
三峡は山地が面積の多くを占めているので、先住民が農耕作業のほかに、山で木を
伐採したり、木炭を作ったり、籐を取りに行ったりしていった。また、三峡は染料の原料である「大菁」の産地に近く、三峡渓を利用して淡水河から布を輸送したため、染物業が発展した。昔、三峡古街に最も多かったのは染物業を営む商店であった。
その後、三峡の山地はお茶の栽培に適していることが発見され、また天然資源のくすのきもあったため、人々はお茶の栽培と樟脳の製造を始め、染物、お茶、樟脳は三峡の主な物産になった。
清乾隆帝時代に安渓からの移住者がどんどん増えて、「渓集落」が形成され、三峡で初めての街「三角湧街」の原形も(現在の民権古街)このころ作られた。
清後期に三角湧の主要産業は樟脳、お茶、染物であった。そして三角湧街を集散地として、発達した水路を利用して全国各地に販売が行われた。さらに、外国にも輸出していた。全盛期には船舶の出入りが多く、町も大いに栄えていた。
日本統治時代に三峡を積極的に開発し、ユニークな建築スタイルを作り出した
。
清光緒21年(1895年
)に下関条約により、台湾は日本に割譲された。日本軍が台湾に上陸した後、最初に三角湧の義軍に抵抗され、数百人も殺傷された。その後、日本軍は復讐のため、住民を殺害したり、町を焼き払ったりした。三角湧街庄と祖師廟がこの時焼き払われたが、日本統治初期にまた再建された。日本統治中期、日本人がここで石炭の採掘と材木の伐採を始めたことをきっかけに、工業が発展していった。
この時期の染物業は洋服の流行のため、日ごとに衰えていった。大正5年(1916年)、「街区改正」という街を整備する政策が実行されたため、現在の民権古街の姿が出来上がった。さらに、軽便鉄道も建設され、主な交通手段となった。
日本統治後期、皇民化政策が推し進められることにより、三峡の著名なシンボル−三峡拱橋がこの時期に完成した。水上運輸時代はこれで幕を閉じ、それと共に三峡街庄の消費形態も次第に生計型の消費に変わっていった。
台湾光復。祖師廟が芸術品として輝きに満ちている。
日本の台湾統治が終焉を迎えた後、新制度で三峡鎭となり、三峡の信仰の中心である長福巌清水祖師廟は芸術家の李梅樹教授により改築された。巧みな工夫が凝らされ、精細な彫刻が施されているため、祖師廟は「東方芸術殿堂」という美名で知られており、これにより荘厳な雰囲気が漂っている祖師廟は、芸術的価値が高いと世間に認められている。
藍染め、古街、三角湧 三峡商圏公式サイト
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